地方議会を改革するための構想と制度設計
多治見市議会議員 中道育夫
目次
はじめに
改革のためのいくつかの仮定
仮定A 首長側が戦略的な地域政策を立案できない場合、どうするのか。
仮定B 議会側が合理的に審査または監視できない場合、どうするのか。
仮定C 首長側の政策に難があり、議会側が対案を検討する場合、どうするのか。
仮定D 代表制民主主義による意思決定が民意と異なった場合、どうするのか。
仮定E 二元代表制が実質的に機能していない場合、どうするのか。
仮定F 選挙で分権時代に相応しい議員を選出していない場合、どうするのか。
まとめ
はじめに
第二十八次地方制度調査会の第十九、二十回専門小委員会で、「議会のあり方」が議論された。しかし、議会側を代表する参考人と専門小委員会委員、及び事務局を務める総務省のそれぞれの認識が異なっていたため、議論を十分に深めることができず、意見の収束が見られなかった。
そこで事務局は、二千五年九月五日の第二十六回専門小委員会で、「地方議会のあり方について」と題する議論の方向を示した。その中で、総務省は次のような認識を示した。
「地方分権一括法の施行を経て、国と地方の役割分担の明確化の中で、地方が持つべき分野について地方公共団体の自己決定権が拡大するとともに、自己責任の原則が徹底されることになった。」加えて、「このような観点からみたときに、住民自治の根幹をなす議会について、その活性化を図り、議会が担うべき機能・役割を適切に果たすこととなるよう、議会の権能・組織・運営等のあり方について制度、運用の両面から見直すべきではないか。」
また、「今日議会に充実強化が求められる機能」として、従来の団体意思の決定を行う議事機関の機能の他に、監視機能と政策立案機能を挙げ、さらに「このような議会の機能を果たす上で、議会の構成や運営において、議会の意思と住民の意思が乖離しないような努力が従前にも増して必要とされているのではないか」という方向をも示し、続けて「議会のあり方の見直しに係る具体的方策の検討」を行っている。
しかし、ここで提案された多くの具体的方策は、議会のあり方に関する本質的な議論を避けた議会運用上の技術的なものが多く、前回に論点整理された「議事機関としての議会と執行機関としての長とを、ともに、民意に基礎を置く住民の代表機関として、それぞれ独立の立場において相互に牽制し、均衡と調和を図るという見地に立っている」という真の二元代表性を実現したいとする基本認識からは一歩後退している。
また、議会側が提案した「議員の身分を公選職に位置づけよ」については、「位置づけの変更にどのような法的効果を持たせるのか、地方公務員法、公職選挙法等、他の関連する制度との関係をどう整理するのかなど多くの論点があり、さらに慎重に検討する必要があるのではないか」として、実質上棚上げしている。
私は「議会と長の関係、そして議会の基本的な役割や機能等、議会制度の根幹に関わる事項」こそが、専門小委員会で最初に議論すべき事柄ではないかと考えてきた。しかし、総務省の判断は「運用の実態、世論の動向を見つつ、議論を深めることが必要」という先送りの方針となった。
そこで私は、議論を活性化して地方議会の改革をより良いものにしたいとの思いから、今回の年報自治体学第十九号公募論文募集の特集テーマである「自治体における代表性」の場を借りて、過去十年間の議員活動と三回の選挙、及び四ヶ月間の議長職の体験に基づき、現場から私見を述べてみたい。
改革のためのいくつかの仮定
専門小委員会事務局の資料によれば、現在議会の役割は団体の意思決定と執行機関の監視とされている。その実態的な手続きは、首長側が戦略的地域政策を提案し、議会側がその政策を審査して議決し、可決された政策を首長側が執行し、執行状況を議会側が監視することとなっている。しかし、これらの手続きが各機関の権能に即して実行されれば問題はないのだが、現実はどこかで機能不全を起こしているという批判が多く、行政改革や議会改革の必要性が叫ばれている。
そこで、こうした手続きの過程での機能不全によって起こり得るいくつかの基本的な仮定を行い、それぞれに対する考察を行いたい。
仮定A 首長側が戦略的な地域政策を立案できない場合、どうするのか。
仮定B 議会側が合理的に審査または監視できない場合、どうするのか。
仮定C 首長側の政策に難があり、議会側が対案を検討する場合、どうするのか。
仮定D 代表制民主主義による意思決定が民意と異なった場合、どうするのか。
仮定E 二元代表制が実質的に機能していない場合、どうするのか。
仮定F 選挙で分権時代に相応しい議員を選出していない場合、どうするのか。
仮定A 首長側が戦略的な地域政策を立案できない場合、どうするのか。
実際上、このような事態が発生するのかと問われれば大いにあり得る、と私は考えている。原因は二つ。一つは首長の資質、もう一つは事務方(地方公務員)の組織体質である。
日本が欧米にキャッチアップし、二千年に地方分権一括法が施行される以前と以後では、地方自治体を巡る情勢は一変した。以前は国内外の課題に対する国家戦略が明確であり、国は中央集権のもとでナショナル・ミニマムの拡大と「国土の均衡ある発展」などの政策を、自治体の窓口を通じて執行していた。当時は、国も地方も事務方(主に官僚)が使命感に燃えて滅私奉公の精神を貫き清貧であったため、首長の資質に政策立案や監視の能力はあえて必要とはされず、地域住民の合意を取りまとめる能力だけで十分という認識があった。このため首長には、地域の名士がボランティアとして、もしくは地域の有力者が利権集団の代表として選出されることに何ら違和感はなかった。
しかし、少子高齢化の低成長時代を迎えた地方分権後の自治体においては、まず自らの現状を客観的に分析し、将来を展望した戦略的な地域政策を立案する能力が必要になって、住民が誇れるような特色ある自治体を目指し都市間競争に立ち向かわなければならない。そのリーダーシップを発揮するのは首長であり、首長には自治体を経営する能力までもが求められるようになった。
ところが、このような情勢の変化があったにもかかわらず地方分権後の現在でも、首長選挙で求められる投票の判断基準に全く変化が見られない。つまり、時代が変わって首長に求められる資質が大きく変わったにもかかわらず、住民が首長を選ぶ価値観は旧態依然のままである。このため、時代が求めている課題に十分対応できない首長が選出される可能性が大きいと言わざるを得ない。
それでは、首長側の事務方が地方分権に相応しい地域政策を立案できるのかと問われれば、やはり難しいのではないかと危惧せざるを得ない。理由は二つ。一つは地方公務員が長い歴史の中で国からの指示待ちの体質になっており、自ら情勢を切り開いて行くといった戦略的思考を持たないまま今日に至ったこと。もう一つは国の縦割り行政が地方行政にも貫徹されており、幼保一元化の例に見られるように、自治体の裁量で横断的な政策が立案できないことと、未だに縦割りの行政組織に排他的慣習があるからである。
では、どうすれば良いのか。これらへの対策は、リーダーシップと戦略的思考によって自治体を経営できる首長を選挙で選出するか、もしくは地方議会が地方分権に相応しい戦略的地域政策を立案するしかないと思う。前者は仮定Eで、後者は仮定CとEで詳述する。
仮定B 議会側が合理的に審査または監視できない場合、どうするのか。
総務省によれば、議会の役割とは自治体の意思決定や執行機関への監視であり、今後必要とされるのは政策立案機能とされている。現在の議会において、この三つの機能が十分働いているかと問われれば、当事者として自信を持ってイエスとは言えない実態がある。
自治体の意思決定機能は、全国の自治体で条例が制定され予算が可決されていることからみて、一応働いていると言える。しかし、議会の議決事項の大半は国の法改正に伴う条例や予算の改変であり、しかも提出議案には法定受託事務と自治事務との識別もないため、議会の意思決定機能は執行機関への追認の状況を呈している場合が極めて多い。
また、執行機関への監視機能は、朝日新聞社が五月十二日の社説で大阪市議会を「これなら要らない」と断じたが、従前はこの機能を実質上ほとんど必要としなかったため、他の議会でもあまり働いてこなかった可能性がある。ましてや、総務省が指摘する今後充実すべき政策立案機能に至っては、未着手であると言っても過言ではない。
どうして、このようなことになるのか。原因は二つ。一つは議会の現制度が実質上意思決定機関の機能しかなく、監査機能は執行機関の監査に委ねていたからである。もう一つの原因は、事務方が行政の玄人にもかかわらず、それを監視する議員は片手間の素人であり、たとえ議員が問題を察知し指摘を行ったとしても、質疑で内容的に対等の議論にならないからである。その理由は、例えば(株)ぎようせいが出版している「地方財政小事典」がA五版の五百五十五ページからなっていることからもわかるように、自治体行政が国の法律等によって体系付けられ極めて精緻に専門化されているからである。
それでも議員は、提案された予算が適正か否かを判断するために財政力指数、経常収支比率、起債制限比率などの専門用語を勉強し、政策の優先順位が適正か否かを評価しようと努力はしている。しかし、予算書の評価は過年度の時系列でできても、国の財政状態と当該市税収入を考慮しつつ、近隣他市や類似団体都市の市町村台帳等を比較検討しなければ、客観的な評価が困難である。その作業は、本業を持つ議員が素人の片手間でできるような質と量ではない。
つまり、執行機関に対して監視を本気で行なおうとすると、議員が専門性を高めて議案の精査に多大な時間をかける必要があるが、現制度ではとてもできるような状態にはない。
しかも現実は、次回の選挙で議員として再選されるためには、前述したような作業をほとんど必要としないため、習熟し専門性を高めて監視機能を向上させたいという動機がほとんど働かない。その理由は、市民が選挙に際し議員を選択する場合、審査能力、監視能力、政策立案能力という価値観で投票した方が良いという認識に至っていないからだと思う。
では、どうすれば良いのか。議会と議員の役割を明確にして、その役割に適合する人物を選出できるように現選挙制度を変えるしかないと考えている。選挙制度については、仮定Fで後述する。
仮定C 首長側の政策に難があり、議会側が対案を検討する場合、どうするのか。
議会の役割を果たすことができる議員が選出されたと仮定する。そして首長側から提出された議案に問題があって、議会側が修正または対案を提出しようとする。現制度で、それができるかと問われれば「難しいのではないか」と私は答えざるを得ない。
その理由は、予算を独力で修正しようとすれば、国の交付金制度と各種事務事業の補助率等の補助金や負担金制度を熟知していなければ難しく、対案に至っては予算編成権が首長側の専権事項であり、しかも実質上国と県の財政担当の承認を得なければならないため、ほとんど不可能である。また、条例を修正または対案を策定しようとすると、他の条例との整合性や国と県の法令・条例・規則などとの整合性を図る必要があり、実際には単に条例の構想と条文の推敲という作業だけでは済まないのである。
これらの課題を克服しようとすると、議員個人の努力だけでは到底困難であり、議員を補佐する議会事務局の充実がどうしても必要である。しかしながら、現状の議会事務局の体制は極めて不備である。
例えば、人口約十万の多治見市の場合、市長は約千人の事務方をスタッフとして使うことができる。これに対し、二十四人の議員を補佐する議会事務局員はたったの六名である。この六名は議事運営、会議録作成、議会広報、各種議長会事務、他市視察対応、報酬・費用弁償・政務調査費等事務、請願・陳情・要望等事務、その他各種照会回答事務、図書整備などで忙殺されており、肝心の調査担当、政策担当、法務担当の事務局員を配置することができないばかりか、個々の議員の事務的な要望にも応えられる状態にない。
しかも、議長には議会事務局の人事権と予算権がない。このため、事務局員は議長よりも執行機関の意向を窺いながら仕事を行う。実質上議長は新しい改革にほとんど着手できないばかりか、議員同士の約束事により議長は毎年交代することになっているため、過去の経験知が全く生かされず、事務局に対し主体性を発揮することができない。このように、現二元代表制の実態は制度的な名目上だけのもので実質的に機能しているとは言いがたい。
では、どうすれば良いのか。議会事務局は予算と人事面で執行機関から独立させて充実を図り、議長に権限を持たせる以外に方策はない。しかし、現制度は自治体の人口に比例して事務局員数が定められていることから、小規模な自治体で多数の事務局員を配置することはできないし、またコスト面からも無理がある。そこで、人口十万人の都市を基礎的自治体のモデルとして、適正な議員数と議会事務局員数を定める必要がある。人口が十万人に満たない自治体は、いくつかの自治体で広域行政事務組合を結成し議会を共有する他はない。その場合の議会事務局の機能としては、総務機能、議事機能、審査機能、調査機能、政策立案機能、法務機能などが必要である。
私は議員の資質適正化と議会事務局の充実があって、初めて地方分権時代に相応しい二元代表性の議会が機能すると考えている。
仮定D 代表制民主主義による意思決定が民意と異なった場合、どうするのか。
議員が合理的に審査をできるようになって議会事務局の拡充が図られ、さらに監視や政策立案の機能を高めるために議員を「公選職」という専門職に位置付けたと仮定する。その場合に危惧されることは、議会が住民の代表というよりも専門化集団という性格を強めて、議会の意思決定と民意が、今よりもさらに乖離するのではないかということである。
一般に、代表機関の決定と民意との乖離を最終的に解決する方法の一つとして住民投票がある。以前私は、この方法が最も民主主義的な方法である考えていた。しかし、市町村合併の是非を問うための住民投票(投票方式の住民意向調査)を経験した後、この方法が多くの問題を孕んでおり、必ずしも最善であるとは考えられなくなった。
平成の大合併は国が地方分権時代の行政を効率化するために提案したものであり、当地域にとっても必要不可欠と私は考えていた。しかし、住民は合併を地域のアイデンティティー喪失と受け止めて合併を否決してしまった。その原因の多くはリーダシップを発揮できなかった首長側と議会側の住民に対する説明不足や説明方法の稚拙さにあったと考えている。しかし、行政側がこれほど重大な課題に対し多額の費用と時間を掛けて失敗したにもかかわらず、その結果責任を誰も果たさなかった。このことは住民投票が代表制民主主義の責任を住民側に転嫁するという無責任な側面も併せ持っていることを証明した。
また、一般廃棄物最終処分場等の迷惑施設は自治体内のどこかで建設しなければならないが、もし候補地の地区で建設同意の住民投票を行えば、同意はまず得られないであろう。さらに、仮に十万人都市で温水プール建設の是非を住民投票に諮れば、その結果は財務状態にかかわらず「是」となる可能性を否定できない。このように住民投票は代表機関と住民の双方が結論を導く議論と思考を軽視し、結果だけに関心を寄せるという無責任な事態になる可能性が高い。
では、代表機関と民意の乖離を最小限に食い止めるには、どうすれば良いのか。重要案件については、議会の議決前にアンケート方式の住民意向調査を行い、議決後には討議デモクラシーを実施する方法が適当ではないか、と私は考えている。
議決前に民意との乖離を少なくするための住民参加の形態は、従来からアリバイ作りなどと揶揄されてきた審議会等に加えて、ワーク・ショップ方式やパブリック・コメントなどの方法が採用されてきた。しかし、民意を把握し議会との乖離を最も少なくする方法は、アンケート方式の住民意向調査ではないかと考えている。
議会の議決後に実施する討議デモクラシーは、篠原一が「市民の政治学(岩波新書)」という著書の中で提案している。篠原によれば、ドイツの哲学者ハーバーマスはデモクラシーが二つの回路からなると考え、第一の回路は代議制デモクラシーで、第二の回路は討議デモクラシーとされている。討議デモクラシーの目的は代議制デモクラシーによる決定の検証と新しい論点の発見であり、討議デモクラシーが代議制デモクラシーの決定に正当性を与えるものとして位置づけている。討議デモクラシーにはいくつかの形態があるが、その原則は市民社会での討議に最大の価値を置きつつ、無作為に抽出された小規模なグループが市民社会全体の縮図を構成していることを前提として、グループに正確な情報が公平に与えられ、十分な討議を行った後に結論を出す。ただし、その結論は代議制デモクラシーを拘束するものではない、というものである。
しかし想定外の出来事だが、万が一討議デモクラシーの結論が議会の議決結果と異なった場合の対策は、やはり住民投票に諮らざるを得ない。その時の住民投票は自治体の意見を二分するような重要な案件についてのみ執行機関が提案し、議会が可決した議案のみを投票にかけるものとする。議会で議論されていない事案については、議論の熟度が低いと見なして住民投票に諮らない。住民投票の結果は自治体の最高の意思決定であると位置づける。ただし、議会の議決事項と住民投票の結果が異なった場合には、議会での再議により決定する。再議は新しく選出された首長または議員によって行われるのが自然である。
仮定E 二元代表制が実質的に機能していない場合、どうするのか。
よく首長の意見と議会の意向が異なった場合、どちらの意見が民意を代表しているのか、という議論が行われることがある。これは設問の仕方が不適切であって「二元代表制ではどちらの意思を優先するのか」というものが適当であり、その答えは民意を代表し決定権を持つ議会側である。したがって、議会側は本来首長側よりも強い権限を持っているはずだが、実際は議会召集権や議会事務局の予算編成権と人事権などが、全て首長側の専権事項となっているため、議会は弱い立場に甘んじている。このため、二元代表制の主旨に則り、本来の議会側の権能を高める必要があるが、単に権限を付与しただけでは論争が他の利権の取引材料に利用される恐れもあり将来に禍根を残すことになる。
ところで、現在の二元代表制は名目上首長と議会の対立構造のようになっているが、実質上は国の政策と地方議会との対立構造になっているのではないかと、私は思っている。前述したように議会で審議する条例や予算の大半は、国の法改正や補正予算に伴うものである。自治体が独自の条例を改廃し、独自の財源で補正予算を編成することは稀である。
ちなみに財政力指数は、自らの財源で自らの行政サービスをどの程度賄えるのかを示す比率だが、ほとんど全ての自治体が一に満たない。つまり、自治体は国の交付税や補助金なしには経営ができない仕組みになっている。また、経常収支比率は自治体財政の弾力性を示す指数だが、その適正値は七十から八十パーセントとされている。しかし、現実は八十五から九十五パーセントの自治体が大半であり、首長は一般会計予算のうち十から十五パーセントの予算しか戦略的な地域政策に使用することができない。他の予算は事務方の人件費や公共施設等の維持管理費、及び生活保護費など国のナショナル・ミニマムを充足するために使用されている。つまり現在、自治体が行っている事務事業の約九割は国の政策であるということができる。
このため、地方六団体は国の干渉を極力低減し、全国一律の金太郎飴のようなまちづくりではなく、地方の特性に合った効率の良い自治体を作るために、三位一体の改革を主張している。それは財源を移譲して自治体経営の自由度を高めなければ、首長が自己決定・自己責任の原則に基づいて政策的リーダーシップを発揮することができないからである。
一方、議会に提出される議案は、国の政策と自治体独自の政策が識別されないまま、それぞれが首長名で提案され、各議案には対案等の他の選択肢も示されていない。このため、素人の議員にとって政策選択肢が一つの議案の審査はなかなか難しい。それは提案された政策を比較検討するために、より専門性の高い他の政策選択肢を、言わば国を相手として独力で探さなければならないからである。それに、選択肢が一つの議案は審議の過程で無原則的な妥協が繰り返され結果的に焼け太りとなって、行政が肥大化する恐れがある。その可能性は国の道路公団や郵政の民営化が示している。
では、どうすれば良いのか。地方分権時代の二元代表制は、国の政策を代弁する事務方と住民代表の議会の対立構造では立ち行かないため、経営の自由度を高めた自治体の首長と議会の対立構造でなければならない。その対立軸は、例えば自由対平等、市場経済対福祉政府、提供者対生活者などであり、それぞれの対立軸を代表する地域政党が、交互に政権交代できるような制度に変革する必要がある。その場合の事務方の役割は、対立軸に即した政策を相対立する地域政党にそれぞれ提供することだと考えている。
このような観点から、私は二元代表制と議員内閣制の利点を活用し、自治体としての意思決定を行なう制度として、次のものを構想した。
@ 地域又は議会内に既存政党とは異なる性格の二つのローカル・パーティーを設立する。二つのローカル・パーティーは、地域における二大政党をイメージしている。極端な例を示すと、欧米の階級制を見本とした支配階級政党と被支配階級政党の二極構造、あるいは提供者側の付加価値創造政党と受益者側の生活者政党の二極構造、さらに自由と市場経済を重視する「小さな政府」と、平等と社会的権利を重視する「大きな政府」の二極構造などが想定できる。実際には、どちらに軸足を置くかによって、ローカル・パーティーの性格が決まってくる。
A ローカル・パーティーとは、都市間競争時代における自己決定と自己責任の原則に立ち、地域政策を立案する機関である。そして地域政策は、国政が担当するナショナル・ミニマムではなく、類似団体都市の平均値としてのシビル・ミニマムと、地域特有のローカル・オプティマムをベースとして検討立案する。対象は法定受託事務ではなく、自治事務である。
B ローカル・パーティーは、選挙においてローカル・マニフェストを作成する。ローカル・マニフェストは、シビル・ミニマムとローカル・オプティマムをベースとして、議員等の政治家が作成する政策マニフェストであり、事務方が作成する総合計画(長期計画)等の事務事業とは次元が異なるものとする。
C ローカル・マニフェストは「検証可能な公約」と定義し、行政評価(政策評価と執行評価)が可能なベンチマーク(インプット指標、アウトプット指標、アウトカム指標)を明示する。
D 二つのローカル・パーティーは、それぞれのローカル・マニフェストを掲げ、最も効果的かつ効率的に実行できる候補者を個別に擁立し、首長選挙と議員選挙を戦う。この制度は実質的な議院内閣制であるが、長期政権と政治の停滞を避け、自治体に劇的な政策変更を促すものとして、現在の二元代表制の利点を評価し導入する。
E 選挙後は、当選した首長のローカル・マニフェストが議会での論争の基軸となり、首長選挙に落選したローカル・パーティー所属の議員が、与党とは異なる立場から執行機関を監視することになる。そして場合によっては、野党のローカル・パーティーが対案を提案することになる。対案を提案できない力量の野党は、実質的な監視機関にはなり得ないと考えている。
F 代表機関と民意の乖離をなくすために、市民生活に直接影響して意見が分かれるような重要案件の審議には事前にアンケート方式の住民意向調査を実施し結果を参考にする。そして、議会の議決結果と民意が異なるような状況が生まれた場合は、結果の検証と新しい論点を発見するために討議デモクラシーを実施する。万が一、討議デモクラシーの結果と議決結果が異なったときは住民投票を行う。
G 事務方は相対立するローカル・パーティーに対して政治的に中立であり、自治事務に関し対立する二つ以上の政策選択肢を提供する。そして、ローカル・パーティーと議員の役割の軽重をどのように制度設計するのかにもよるが、議員の負担を軽減する場合は、議会と事務方の間にシティー・マネージャー制を設置する。
H 余談になるが、私は本構想が地方議会の事案で研鑽した議員たちを国会議員として送り出すための登竜門となるよう位置付けたい。地方議会で政策的な対立軸を基点とした審査・監視・政策立案などの実力を蓄えた国会議員が、国政のあり方を抜本的に変革することを大きく期待している。
仮定F 選挙で分権時代に相応しい議員を選出していない場合、どうするのか。
地方分権時代に求められる議員の資質は、総務省によって審査能力、監視能力、政策立案能力とされた。ところが、現在の選挙制度は議員にそのような能力を要求していない。
郵政民営化の是非を問う国民投票の観を呈した九月十一日の衆議院選挙では、法案に反対した国会議員を落選させるための「刺客」が自民党公認候補として多数立候補した。しかし報道機関の情報によれば、多くの「刺客」が上記の能力を兼備しているとはとても思えない。それでも小泉自民党総裁は「小泉劇場」でこれらの「刺客」を使いながらワンフレーズ・ポリティックスを演じきって、二百九十六人の候補者を当選させ見事に圧勝した。
欧米では「日本の選挙は政治的美人コンテストに過ぎない」というジョークがあるようだ。また選挙プランナーの三浦博史は、「洗脳選挙(光文社)」の著書で、「選挙は単純なメッセージの刷り込み(洗脳工作)の積み重ねである」と述べている。さらに政治を国民の身近なものにしたテレビの功績は大きいが、報道の姿勢が政治よりも政局に偏って、「小泉劇場」と呼ばれるように、選挙が「考える選挙」よりも「見る選挙」になっている。いずれにしても、小泉総裁は郵政民営化で一点突破のイメージ戦略により選挙を勝利した。
日本の現選挙制度は政策論争を想定して制度が設計されているが、候補者の能力や倫理については想定されていない。このため結果的に、有権者を引き付けるワンフレーズを連呼すれば、その実効性を担保することなく当選できる制度となっている。これを解消するためマニフェストが導入され始めているが、制度としては未熟である。しかも政権担当者でもなく地域政党にも所属していない地方議員、つまりマニフェストを持たない議員を、どのような基準で選出するのか。公職選挙法は何も規定していない。
では、どうすれば良いのか。選挙は制度の改革を含む政治の全てを決定する。その選挙において、私たちは魚屋で大根を求めるような愚を繰り返して来たのではないか。少なくとも地方分権時代に適合できる議会改革を行おうとするのであれば、それに相応しい資質を持った人物を選ぶことができるように、今の選挙制度を変える必要があるのではないか。
現在の選挙制度は、議会の役割と議員の資質が恣意的に曖昧にされたまま制度が確立してきたため、投票行為が外見的印象や人柄、そしてドブ板を期待する人気投票となってしまっている。議会の役割や議員の資質等の設計思想がない現制度のままでは、住民は地方分権時代に求められる議員を選出することはできない。また、議員の使命と理想像が明確でないため、倫理の面でも不安が残る。過去の国会議員の例で見れば、秘書給与詐欺、学歴詐欺、強制わいせつ、覚せい剤使用などがあった。
一方、議員の身分についても明確な設計思想がないため、一般市民が議員に参入しようとすると様々に社会的な障壁がある。制度的には、自治体の大小に拘わらず議会のあり方と議員の役割は原則同じのはずだが、現在の法体系では自治体人口の大小に比例して議員の定数と報酬が定められているため、各自治体の大きさによって議員の身分に格差が生じ、参入のための大きな障壁となっている。
例えば、選挙に立候補する場合、小さな自治体では当選できる得票数は少なくてすむため、知名度のないサラリーマン等の給与所得者でも議員になれる可能性はあるが、議員の報酬も少ない。さらに、まだ年功序列の概念が残存している社会において、給与所得者が一旦団体を退職すると、その後の社会保障が極めて不利な扱いを受けることになっている。このように実情は、身分の安定性と報酬の面で、現在の職業を放棄するリスクを背負ってまで、選挙に立候補しようとする動機が希薄となり、決断するまでには至らない。
これに対し、大規模な自治体では報酬が多いのだが、当選に必要な得票数が大量に必要なため、議員に立候補する条件として、まず地盤・看板・鞄がなければならない。このため大規模自治体では、必然的に政治家二世やタレント、組織推薦者でないと議員に当選することは難しく、いかなる志があっても知名度のない市民はなかなか議会に参入できない。
つまり現状は、自治体の大小にかかわらず、地方自治や政治に対しどのような問題意識や改革の意思を持とうとも、一般市民が選挙に立候補し議員に当選するための制度的かつ社会的な障壁があまりにも高すぎる。そして運良く当選できたとしても、議員は本業を持ちながらの片手間では役目を果たせないことは前述した通りである。このため専門小委員会で議会側の代表が提案したように、議員を「公選職」という常勤の専門職として身分を確立し保障する必要がある、と私も考えている。
まとめ
議会は、住民の代表が単に集う場ではなく言論の府である。より良いまちづくりを目的とする理論闘争や合意形成の場であり、自治体の意思決定の府である、と私は考えている。しかしながら現在の議会は、キャッチアップ以前の中央集権時代の制度や慣習がそのまま温存されており、時代が求める議会の機能としては不十分であり、今こそ議会を少子高齢化と地方分権の時代に適合するための制度に改革しなければならない、と私は思う。
新しい時代には、新しい酒と新しい皮袋が必要なのであり、選挙で審査・監視・政策立案能力に優れた議員を選出し、彼らが活発な理論闘争を展開できるように言論の府を整備することが必要だ。また、専門性が高い代議機関と民意の同質性を担保するための制度と、最終決定権は住民にあることを示す制度の整備が必要である。
(2,005年9月30日原稿執筆)