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平成16年12月17日

平成16年12月 第5次総合計画・後期計画の反対討論

 市民クラブの中道です。私は議第138号 第5次多治見市総合計画基本構想を改定するについて、反対の討論を行ないます。この度の総合計画は、平成13年から平成22年までの10年間の全体計画(以下、前期計画という)のうち、計画の立案から4年が経過したため、平成17年からの後期計画を改訂したものです。

 前期計画と後期計画とでは、計画の形式と内容に若干の違いがあります。まず、計画の形式の違いですが、前期計画に比べて後期計画では、計画の進行管理と施策の優先順位という2つの視点が追加改善されました。しかし総合計画としてのあるべき姿に比べると、まだ改善すべき点が数多く残されています。

例えば、他の類似団体都市と比較した現状分析がないために、多治見市の長所短所が客観的に把握できないこと、また計画は自治体の使命と将来像の区別や、政策体系と戦略的施策の区別、及び普通事業、重要事業、新規事業の区別などがなく、さらにベンチマークなどの期間を限定した数値目標のない実績主義で策定されていることから、政策評価と執行評価及び事務事業評価などの行政評価ができない、不十分な計画となっています。

次に内容の違いですが、基本構想の本文にありますように、後期計画は前期計画と比べ人口の減少と少子高齢化の進行により、生産人口が減少し、財政状況が将来にわたり悪化することが予想されるため、「持続可能な地域社会づくり」という観点で見直がされています。

私は4年前の平成12年12月議会で、前期計画に10点の問題があると指摘し、反対討論を行ないました。また今年の6月議会には、西寺市長がマニフェストと後期計画で提案された「持続可能な地域社会づくり」を、さらに9月議会では、それらを具体化した総合計画・基本構想案を、それぞれ批判的な立場から一般質問を行いました。

今回の討論では、それらを踏まえて全体の基調をなす「市民の鼓動が響くまち」と、後期計画で追加された「持続可能な地域社会」という、2つのコンセプトの問題について述べます。

最初に、「市民の鼓動が響くまち」というコンセプトですが、問題が2つあります。まず1つ目です。計画の目的は「市民との協働」ですが、毎年行われている市民意識調査で、市民はそのようなことを望んではいません。市民が一番望んでいる政策は、今も昔も「交通渋滞の解消」などの都市基盤の整備です。つまり、市民の要望の優先順位と計画の目的は整合していないのです。

2つ目の問題は、目的とする計画の中身です。私は決して「市民との協働」を否定している訳ではありません。少子高齢化がより顕著に進行する地方分権時代にあって、「市民との協働」は必要なことです。しかし計画には、「市民との協働」の根幹をなす住民自治の戦略と政策がありません。

憲法の第92条には、地方自治体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて行うこと、とあります。本来、地方自治の本旨は、団体自治と住民自治の2つの要素からなります。しかし計画は、団体自治について述べていますが、住民自治については戦略もなければ政策・施策も示していません。

また、計画体系図の第2レベルには、情報の共有、交流の場、市民参加と協働の仕組みとありますが、ボランティアやNPO、及び地域自治組織をどのようにして振興し活性化するのか、という戦略的な政策・施策が全く示されていません。

本格的な地方分権の到来に備え、「近接及び補完の原理」を実現させるため、地域自治組織の再構築は不可欠でありますが、一言も言及していません。このような計画では、地方自治の団体自治と双璧をなす住民自治の実現は困難であり、計画が目的とする「市民との協働」は、到底不可能であろうと考えます。

執行部が「市民との協働」を本気で望むのであれば、今議会の一般質問でも述べたように、地方自治の本旨を実現するため、団体自治のみならず住民自治についても、論点を整理し制度設計を行った後、それらの政策・施策を計画に盛り込むべきであると私は考えています。

 次に、「持続可能な地域社会づくり」というコンセプトの問題について述べます。問題点は3つあります。1つ目は、「持続可能な地域社会」という標語の使い方です。6月の一般質問でも述べましたが、そもそも「持続可能」という用語は、@地球環境の悪化を懸念し自然開発を抑制するために「持続可能な開発」と呼ぶ場合、Aヨーロッパで都市の再開発を行うために「持続可能な都市」と呼ぶ場合、B東大の神野教授が提唱し地域の内需拡大を目的とする「持続可能な地域社会」と呼ぶ場合の、3点で一般に使われてきました。

しかし計画にある「持続可能な地域社会」の標語は、これらのどれにも当てはまりません。計画の中身は、9月の一般質問でも述べましたように、基本的に「現状維持」を目的とした計画であり、財政の悪化に伴う「縮小均衡」の計画であります。

この標語で計画を立案するならば、遅れている多治見市の社会共通資本を、せめて類似団体都市の平均値まで引き上げた上で、地方自治の本旨を実現できるような政治のシステムを構築し後世に引き渡すことが、「持続可能な地域社会づくり」だ、と私は考えるものです。
 
  2つ目の問題点は計画立案に際しての現状認識の仕方です。基本構想の本文に、「元気を持ち続けられるまちを、いかにつくるかが大きな課題」とありますが、執行部の現状認識は「今が元気である」という認識のようです。一般に「元気」は経済活動のことを指しますが、多治見市の経済はいま元気なのでしょうか。私は地場産業で、かつ基幹産業である陶磁器産業の構造的疲弊に伴い、多治見市の経済は長期低迷状態にあるとの認識を持っています。

 仮に、執行部にそのような認識があるのならば、計画は市民の雇用確保と税収の増加を目的とした産業の戦略的な政策と施策を最優先にするでしょう。例えば陶磁器産業の振興は、中国の大量の安価な製品を考慮すれば高付加価値化、つまりブランド化しかありません。そして、陶磁器産業のブランド化をどのように進めるのか、それに必要な人、もの、金、流通、情報などを、どのように調達し整備するのか、などの戦略が必要となります。

 ところが3市1町を見渡しても、そのような戦略を立案する機関、つまりシンクタンクがありません。地方分権時代になって、地域のことは地域で考える必要性が不可欠となりますが、考える場所がありません。また教育の面においても、地域の人材は地域で育てる必要がありますが、この地域には高等教育機関がありません。

 私はこれらの問題を解決するのは大学の創設であると考えておりますが、前期計画で掲載されていた「大学の立地」は、「大学等高等教育機関との連携」に後退しました。つまり縮小均衡の計画のために、産業振興などの多治見市の将来を考え、人材を育成する、つまりシンクタンクと教育機関の機能を有する「大学の立地」が見送られました。大変残念に思います。

 3つ目です。西寺市長の当初の公約である「多治見を変える」と、今回の「持続可能な地域社会づくり」の標語は整合していません。西寺市長はこの9年間の行政の結果、「多治見は変わった」との認識を持ち、今後は「持続可能な地域社会づくり」を目指されたのでしょうか。

 私には「多治見が変わった」という認識は殆どありません。9年前の初の6月議会で、私は「多治見をどのように変えるのか」と一般質問を行いました。そのとき、市長は「まず内側から変える」と答弁されました。その後の2,000年に、国の地方分権一括法の成立に伴い、確かに職員の考え方は変わりました。そのことを促進された市長の功績は認めます。

 しかし、市民が変えて欲しいと期待した直接的な生活環境は、基本的に「変わった」、または「向上した」とは思えません。例えば他の類似団体都市に比べて、財政規模は依然として低いままであり、社会共通資本の整備は下水道整備率が向上したぐらいで、あとの指標は平均値よりも低いままであります。

しかも西寺市長の主たる政治的課題である「市民参加」については、前述したように地方自治の本旨のうちの「住民自治」については、手付かずの状態です。そこで私は、「多治見を変える」ための課題は、まだ山積していると考えています。

もちろん国の財政方針の大きな変換があったことで、多治見市の財政の悪化が予測され、財政を均衡させる必要があります。しかし、そのことは今年度から実施された三位一体の改革に伴うものです。西寺市長が就任されてから9年が経過していますが、今まで縷々説明しましたように「持続可能な地域社会づくり」を標榜できるほど、市民の生活環境は向上したとは言えないでしょう。

 最後に、西寺市長の言われるマニフェストの問題点について述べます。市長は新聞や雑誌で「総合計画こそ首長のマニフェストである」と述べておられますが、私は政治家が選挙で争うマニフェストと、地方自治法で定められ議会の議決が必要な「総合計画」とは、次元が異なるものと考えています。職員も私と同様な考えのようで、同じ新聞や雑誌で「マニフェストは総合計画を踏まえたもので仕事がやり易い」と述べ、マニフェストと総合計画を明確に区分して考えています。

ところで、職員が言うように「マニフェストは総合計画を踏まえたもの」なのか、それとも市長が言うように、「マニフェストと総合計画は同じもの」なのか、ということを論じることは大切な事柄です。何故ならば、その意味付けは自治体の首長と事務方の役割を大幅に変化させるからであります。

職員の言う「マニフェストは総合計画を踏まえたもの」とすれば、首長のマニフェストは事務方がお膳立てしたものを、首長が選挙用にアレンジしたことになり、首長は事務方の傀儡となります。他方、市長の「マニフェストと総合計画が同じもの」とすれば、事務方は首長が立案した政策を単に総合計画用にアレンジしたものとなり、事務方は政策立案作業が必要のない単なる作業員に成り下がってしまいます。

しかし地方自治法はそのようなことを想定していない、と私は考えるものです。したがって、市長の発言も職員の発言も、本人の意図とは関係なく、自らの立場を認識し地方自治法を踏まえた発言とは言えません。

そもそも私は、検証可能な公約が政治家のマニフェストだと考えています。この9月に早稲田大学で行なわれたローカル・マニフェスト検証大会に参加された県知事らも、同様な考えのようでありました。西寺市長の言われるマニフェストは、予算編成を経験した者でないと作成が困難なものであります。従って、このマニフェストの様式が日本の標準的なマニフェストになることはあり得ない、と私は考えています。

なお、私はこれからも執行部から提案されるであろう予算や決算の議案については、国の法定受託事務と、ナショナル・ミニマムやシビル・ミニマムにかかる事務事業が含まれていますので、それぞれ議案について是々非々のスタンスで対処して行きたいと考えています。

以上で、私の反対討論を終わります。

 


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